| ３、３月１４日（金）午後 ──その、さらに翌日。 「もういい、今日はこれまで！」 いつも温厚な指揮者の桐島が、珍しく強い口調でそう言い、レッスンを切り上げて出ていくのを、鷹生はぼんやりと聞いていた。リハーサル室の中は、ざわざわと不安そうにざわめいている。 わかっていえう。今日のレッスンが滅茶苦茶だったのは、全部自分のせいだ。 けれど、鷹生はどうしても、ピアノに集中することが出来なかった。こんなことは、去年の夏の青嵐祭以来だ。 「……」 鷹生は、ピアノの鍵盤の上の蓋を閉めると、椅子に座ったままうつむき、全身でため息をついた。 今日見た光景が、ずっと、エンドレスの映像のように目の前にちらついている。そのことを考えると、心臓が食い破られそうな気がする。 「──おーい、こら」 その時、いきなり後ろから、パシン、と楽譜で頭の後ろを叩かれ、鷹生ははじかれたように身を起こした。勇が妙に意地悪そうな笑みを浮かべ、こちらを見ていた。 「……」 鷹生は今、たとえ相手が誰であっても、紳士的にふるまえる気分では全くなかった。ましてやそれが、昨日、暁人と馴れ馴れしく話していた男となればなおさらである。 一度、彼を無言で睨みつけると、あとは無視して楽譜を手に取り、そのまま出ていこうとした。しかし、 「なーにいじけてるんだよ？ ──暁人くーん、お願いだから俺を捨てないで、ってか？」 「……っ！」 脳天気な勇の言葉を聞いたとたん、鷹生はカッとなり、振り向きざま、彼の洒落たスエードのシャツの襟首を掴み、慣れた仕草で思いきりしめあげていた。皆がこちらに注目したが、気にも留めていなかった。 「うわっ！ おい、待った待った！ ……全く、カマかけただけだってのに、わかりやすい奴だな」 それ程、身長差が無いはずなのに、勇はわずかだが身体を宙につり上げられて、苦しそうに顔をしかめた。そして、 「こんなことすると、昨日あいつがお前の話をしてたの、教えてやらねえぞ！」 その言葉にはっとし、鷹生は思わず手をゆるめていた。しかし、次の瞬間、恐ろしい勢いで勇に詰め寄っていた。 「あいつ、何を言ってたんだ！」 「教えてやってもいいぜ？ ま、お前が、暁人と何があったのか話してくれれば、だけどよ」 あえぎながらも、憎たらしいことに勇は全然動じず、へらへら笑いながら鷹生を見ている。その様子にまたカッとしたが、確かにそれは知りたかったので、手を離し、どさりとピアノの椅子に座り直した。青嵐祭の時と逆になってしまったと思った。あの時はまさか、自分がこんなに冷静でなくなるとは、全く考えもしなかったのに。 「──今日の昼過ぎ、暁人が銀座で男と会ってた」 そう呟いたとたん、実際にその時の様子が鮮明に浮かび、鷹生は思わずかぶりを振った。 「へ……？」 勇は目を見はった。 「おいちょっと待てよ、今日の昼過ぎってお前、山崎先生のレッスンがあったんじゃねえのか!?」 「行かなかった。かわりに朝のうちに暁人のマンションまで行って、あとをつけた」 そう言うと、勇は今度は、呆れたように叫んだ。 「なんだそりゃお前、ストーカーじゃねえか！」 「わかってる！ だけど、この間から暁人の様子が少しおかしくて、気になって、もうどうしようもなかった！ 昨日、あいつはお前となにか一生懸命相談していやがったろう！ だから余計……」 話しているうちに、更に腹が立ってきた。自分らしくないとつくづく思う。どうしていつも、暁人のことになると、俺は冷静でなくなるのだろう。本当に、初めて会った時からずっと、こうなのだ……。 「お前が執念深い奴だってのは、もう、よーくわかってたつもりだけどよ……」 勇は額に手をやってため息をつくと、折り畳み椅子を引き寄せ、自分もまたがるようにして座った。そうしながら、またにやにや笑って続ける。 「あのさあ、暁人にだって、お前の知らない友達くらいいるんじゃねえの？ あいつすっげえ可愛いし、いい奴だから、全然自覚してないみたいだけどけっこう人気者なんだぜ。ヴァレンタインの時だって、みんなに随分プレゼントもらって……」 「そんなこと、とっくの昔に全部わかってる！」 お前の知らない、という言葉にむかついて、鷹生は手荒い仕草で勇を黙らせた。勇に比べたら、まだつき合った日は浅いが、暁人がどんなに可愛いかなど、自分が一番よく知っているつもりだった。苛々しながらさっきまでの記憶をたどる。 「ただの友達なんかじゃない。あいつ、その男にずいぶんなついてる様子だった。有楽町の駅で待ち合わせた後で、幾つかＣＤ屋とか、奥の方にある本屋みたいなところに入りながら、ずっとそいつと嬉しそうに話したり、笑ったりしてた。そいつもすごく楽しそうで、肩をこうやって抱いて、ＣＤの棚をのぞいてた……」 その時のことを思い出し、唇を噛みしめる。 二人はその後、寄り添ったまま、こぢんまりとした、けれどかなり格の高そうな、自分ではとてもつれて行けそうにないレストランに入っていったのだった。 あとをつけている間、鷹生は何度も、今、勇にそうしたように、あやうくその男に掴みかかりそうになった。けれど、それはどうしてもできなかった。何故なら、暁人がその男と一緒にいて、とても無防備な、安心しきった様子をしていたからだ。 なんだか、打ちのめされた気分がした。もともと誰にも──恋人の自分にさえ、気を使うたちの暁人は、なかなかそういう表情を見せないのに。 そんな想いに耐えきれなくなり、鷹生はまわれ右をして、青嵐まで戻ってきたのである。そして今、話しているうちに、彼はどんどん不安になっていった。 暁人は最近、なにか隠しごとをしていた。一昨日も、少し困った様子で俺を見ていた。三月初めの、謝恩会コンサートの夜、あれほど強く結ばれたと思ったのに。考えてみれば、あの日あたりから急に、暁人は留守がちになっていた。それはひょっとして……。 「……！」 身体が震えるのを感じた。考えたくもないことだった。 「なあ、お前さあ、もっと前に、暁人に何してるか聞かなかったワケ？」 また呆れたように聞かれ、動揺していた鷹生はあわててかぶりを振り、つい、余計なことまで口走ってしまった。 「聞けるか、無理にそんなこと！ あいつはあんなに隠そうとしているんだぞ！ 第一、ホワイトディのことだって、何をやったらいいのか、まだ聞いてないってのに……」 「──あれま」 勇が目を見はったので、急に恥ずかしくなる。 「なんだ、お前も、あいつに何か贈るつもりだったのか？」 「悪いか！」 お前も、という言葉に少しむっとした。勇も、暁人に何かやるつもりだったのだろうか。 そもそも恋敵だった彼に、ここまで話すとは思わなかった。けれども、自分と暁人の関係を知っているのは彼しかいないし、それに、一度言葉にしてしまった為か、もう全てを誰かにうち明けてしまいたい衝動に駆られていた。それほど、一人で悩んでいるのが辛くなってきていたのだ。 恋人のことがわからない、というのが、これ程耐えきれないものだとは思わなかった。これまで、そういう理由で苦しんだことは一度もなかったし、どんなことも、他人にうち明けずに自分一人で処理して来たのに。改めて、自分が変わってしまったことをつくづくと思い知らされた。 「……お前は、知ってるだろう」 そして、いざ口を開くと、言葉は勝手に鷹生の口からあふれ出た。この十日間で胸にたまったものがせき上げてくるかのようだった。 「暁人とこうなってから、俺は本当に、それまでの世界がひっくりかえっちまったみたいに思えたんだ。ヴァレンタインの時も、何故かわからないけれど、ずっとあいつと一緒にいられて、もうむちゃくちゃに楽しかった。あいつと知り合うまで、こんなことは一度もなかったんだ。……なのにまだ、俺はあいつに何も返してやれてない……」 「……」 勇は何も言わず、軽く眉をつり上げてこちらを見ている。鷹生はさらに言葉を続けた。 「それに、あいつはお前の言うとおり、本当に可愛くていい子だから、家族にも友達にも大事に守られていて、何もかもを持ってる。俺がやれるものなんて、何もないんだ……だから、一体、なにをしてやったらいいのかわからない……」 「──ええっとさあ」 ふいに、勇がとんでもなく軽い調子でさえぎったので、鷹生は思わず顔を上げた。 「なあ、暁人と一緒にいた男って、お前より年上じゃなかったか？」 「なんだお前、そいつのこと……」 言いかけたのをさえぎって、勇はニヤニヤ笑いながら続ける。 「お前よかちょい背が低めだけど、すらっとしてて、眼鏡かけてなくて、それで、すっごく育ちの良さそうな、綺麗な感じの男じゃねえ？」 鷹生は呆然とした。その通りだったからだ。 そう、見るからに暁人によく釣り合うような男だった。だから余計、自分のことが情けなく思えたのだ。そんな風に思ったことも、今まで一度もなかったのに。 と、いかにも楽しげに勇が言葉を継いだ。 「──なあんだ。そいつ、知ってるぜ。何せ俺、あいつとは、お前よかずーっと長いつき合いだも……うわわわわ！」 『ずーっと』に、ことさら力を込めてそう言われたので、鷹生は思わず、重いピアノ用の椅子を蹴るようにして立ち上がった。さっきの比ではない勢いで、勇につかみかかり、その胸ぐらを思いきり掴んだ。 「誰だ、そいつは！」 ──けれどその時、鷹生の目に、開いたままの入り口の向こうにたたずむ人影が飛び込んできた。 暁人だった。 肩に楽譜を入れる大きなバッグを提げた彼は、こちらの様子には気づかないようで、腕の時計を見て少し逡巡しているようだったが、まだ早いと思ったのか、肩をすくめるようにしてまた出ていってしまった。 「……！」 そのとたん、他のことは全部どうでも良くなってしまっていた。鷹生は、勇の身体を無造作に放り出すと、オーケストラのメンバーが、呆気にとられて見つめる中、そのままの勢いで、暁人を追ってリハーサル室を飛びだしていた。 「……いてててて」 後に残された勇は、鷹生に締め上げられた喉の辺りをさすりながら、その背中を見送って苦笑いしていた。 「──ま、これくらいは、やったっていいだろ」 その一部始終を見ていた友人の一人が、呆れたように言った。 「お前、けっこう虚しいことして楽しんでねえか？」 |